今回のテーマは「六祖慧能(えのう)」ということで、慧能という禅僧についてお話しさせていただきます。
慧能は中国の禅僧で、禅宗の開祖である達磨大師から数えて六代目にあたるため、「六祖」と呼ばれています。達磨から弟子へ、そのまた弟子へと法が受け継がれ、その流れの中で慧能が登場します。
そして、禅宗教団を大きく発展させた人物でもあります。
慧能の師匠は、五祖・弘忍(こうにん)という禅僧です。
目次
貧しい薪売りだった慧能
慧能はもともと、とても貧しい暮らしをしており、薪を売って生活していました。
ある時、『金剛経』というお経の一節を耳にし、深く感銘を受けます。そして、「仏の道を学びたい」と思い、弘忍のもとを訪ねました。
しかし弘忍は、南方出身の慧能に対して、「南の人間には仏になる素質はない」と言ったと伝えられています。
当時の中国では、北の文化の方が優れているという考え方があり、南方出身者は見下されることもありました。
それに対して慧能は、こう答えます。
「人には能力の違いはあるかもしれない。しかし仏道に南北の違いはありません」
人には立場や才能の差はあっても、仏道という意味では、皆平等であるということです。
この言葉によって、弘忍は慧能の器を見抜いたとも言われています。
しかし、すぐに正式な弟子として認めたわけではありません。慧能は寺の米つき小屋で、ひたすら米をつく仕事を任されました。

また、慧能は体が小さかったため、腰に石を巻きつけて、自分の体重を重くしながら米をついていたとも伝えられています。
神秀と慧能の詩
ある日、弘忍は後継者を決めるために、「自分の悟りを漢詩にして壁に書きなさい」と弟子たちに命じました。
有力な弟子だった神秀(じんしゅう)は、次のような詩を書きます。
身是菩提樹 心如明鏡台
時時勤拂拭 勿使惹塵埃(身体は菩提樹のようなものであり、心は明るい鏡の台のようなもの。だからこそ、常に磨き続け、塵や埃がつかないようにしなさい)
修行を積み重ねながら、少しずつ心を整えていく立場を表しています。
それに対して慧能は、次の詩を書きました。
菩提本無樹 明鏡亦非台
本來無一物 何處惹塵埃(そもそも菩提という木はなく、明鏡という台もない。もともと何一つ固定されたものはないのだから、どこに塵や埃がつくのだろうか)
「本来無一物」という言葉
ここで有名な禅語、「本来無一物」が出てきます。
この言葉は、「私たちはもともと何も持っていない。だから失うものもない」という意味で紹介されることがあります。
もちろん、その理解も間違いではないと思います。
ただ、私はどこか少し、しっくりきませんでした。
私は、「本来無一物」という言葉は、“絶対的な平等”を表しているのではないかと思っています。
慧能の言葉は、「何かが足りないから付け足す」という考えではなく、「私たちはすでに、そのままで尊い存在である」ということを示しています。
私たちは「アバター」を生きている
私たちは普段、役割や立場を背負って生いています。
住職、会社員、親、子ども、成功した人、失敗した人――そういったものを、自分自身だと思い込みやすい。
いわば、アバターのようなものです。
しかし、それらは本当の自分そのものではありません。
肩書きや評価、見た目や立場によって、人の価値が決まるわけではない。
「本来無一物」
私たちは本来、そうしたものを固定された“自分”として持っているわけではない、という教えでもあります。
そして、その奥にある「ありのままの自分」を見つけること
もちろん、役割や立場をすべて捨てることはできません。
社会の中でそれぞれの役目をもって生きていますし、そういうものがあるから社会は成り立っています。
でも、「それらはあくまでアバターなんだ」と少し距離をもって見られるようになると心が軽くなることがあります。
人はつい、肩書きや評価、成功や失敗を、自分そのものだと思ってしまいます。
そして、そういったアバターを他人と比べてしまいます。
大谷翔平を見たら、「すごいなぁ」って思います。
でも禅の立場からみたら、大谷翔平も自分も同じ人間です。
アバターだけ見て比べたら苦しくなります。
でも、「役割や評価は、自分のすべてではない」と気づけると、本当に大切なものを見失いにくくなるのだと思います。
坐禅とは「別の誰かになる」ことではない
坐禅もまた、何か特別な人間になるための時間ではありません。
うまく坐ろう。
悟ろう。
認められよう。
そうした思いを、いったん脇に置いてみる。
ただ呼吸をして、ただ今ここに坐る。
ありのままの自分を見つめる。
坐禅とは、「なにかになる」ためではなく、「今ここを生きている自分」に気づいていく時間なのだと思います。
他人や自分の理想と比べ続けるのではなく、自分の人生を、自分として生きていく。
それが「本来無一物」だと思います。


