
先日、シンガポールから知人が祥雲寺を訪ねてくれました。
目的は、坐禅を体験すること、そして禅について学ぶことでした。
いくつか質問を受けながら、禅や仏教についてお話しする時間を持ちました。
その内容を、備忘録としてまとめておきます。
English version here
禅における悟りとは?
曹洞宗では「修証一等(しゅしょういっとう)」という言葉を大切にします。
これは、修行と悟りは別のものではない、という意味です。
多くの場合、「修行の先に悟りがある」と考えられがちです。
しかし禅では、修行しているその姿そのものが、すでに悟りのあらわれであると捉えます。
仏教は大きく分けて、大乗仏教と上座部仏教に分かれます。
日本の仏教や禅は、大乗仏教の流れにあります。
大乗仏教では、「すべての人に仏になる可能性がある」と考えます。
これを「仏性(ぶっしょう)」といいます。
禅では、本来すべての人に仏としての性質が備わっていると考えます。
ただ、私たちはそれに気づいていないことが多いのです。
たとえば、家具が整った部屋があるとします。
しかし灯りがついていなければ、その状態は見えません。
悟りとは、新しく何かを得ることではなく、
その部屋の灯りをつけるようなものだといえます。
ただし、その灯りはつけっぱなしではありません。
自転車のライトのように、動き続けることで光り続けます。
つまり、悟りとは一度得て終わりではなく、
日々の実践の中にあらわれるもの。
だからこそ、修行そのものが悟りのあらわれとされます。
▪️慧能のエピソード
この考えを象徴する人物として、六祖・慧能(えのう)がいます。
慧能は薪を売って生活していましたが、
『金剛経』の一節を聞き、仏道に心を動かされました。
そして五祖・弘忍のもとへ修行に向かいます。
しかし、文字も書けない慧能は資質がないと見なされます。
それに対して慧能はこう言いました。
「人には違いがあっても、仏の道は平等である」
この言葉に弘忍はその才能を感じ取りましたが、
あえて表には出さず、米つきの仕事を任せました。
やがて後継者を決めるため、弟子たちに詩を書かせます。
有力な弟子(神秀)は、次のように書きました。
身是菩提樹
心如明鏡台
時時勤拂拭
勿使惹塵埃
(身は菩提樹のようなものであり、心は明るい鏡の台のようなもの。
だからこそ、いつも磨き続けて、塵や埃がつかないようにしなさい)
これは、積み重ねて心を整えていく修行の立場を示しています。
それに対して慧能は、夜のうちに次の詩を書きます。
菩提本無樹
明鏡亦非台
本來無一物
何處惹塵埃
(そもそも菩提という木はなく、明鏡という台もない。
もともと何もないのだから、どこに塵や埃がつくのだろうか)
私たちは、もともと清らかな性質を備えており、
本来、執着すべきものは何もないとされています。
だからといって、何もしなくてよいということではありません。
悟りをどこかに求めて何かを付け加えるのではなく、
もともと備わっているあり方に気づいていくことが大切だとされます。
自然の姿がそのままで整っているように、
私たちもまた、本来のあり方においてすでに満ちている存在です。
そのことを、日々の修行の中で確かめていく。
それが禅の実践のひとつの姿といえます。
禅の修行とは何か
禅の修行は、坐禅や読経だけに限られません。
日常生活そのものが修行とされます。
大切なのは、「今この瞬間」に丁寧に向き合うことです。
禅には「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」という言葉があります。
お茶を飲むときは、ただお茶を飲む。
ご飯を食べるときは、ただご飯を食べる。
結果のためではなく、その過程そのものに向き合うこと。
子どもが夢中で遊んでいる姿に近いかもしれません。
このように、「今を生きる姿」そのものが、
修行であり、悟りのあらわれとされます。
犬に仏性はあるのか
これは禅で有名な問いです。
今この瞬間を生きるという点では、
動物のほうが自然にそれを体現しているようにも見えます。
ただし、仏教でいう悟りは、
苦しみという現実と向き合う中で問われるものでもあります。
禅では、この問いに対して明確な答えを出すことよりも、
問いそのものに向き合う姿勢が大切にされます。
悟りによって悩みは消えるのか
彼は、自分の前世がベトナム戦争の兵士だったのではないか、
という感覚を持っているそうです。
そのイメージが心に残り、強く気になっていると話してくれました。
そこから宗教に関心を持つようになり、インドの思想家であるOSHO(オショー)の本と出会ったそうです。
OSHOは、禅や東洋思想を現代的な言葉で伝えた人物として、海外で広く知られています。
「悟れば、この悩みは解決するのか」と問われました。
しかし禅では、
何かを解決するために悟りを求める、とは考えません。
大切なのは、「前世が何であったか」よりも、
今、そのことに心がとらわれている自分に気づくことです。
前世についても、一つの受けとめ方として大切にしつつ、
それに縛られ続けるのではなく、
今この瞬間を丁寧に生きることが大切にされます。
悟りとは、苦しみが消えることというよりも、
苦しみに振り回されずに向き合えるようになることでもあります。
他者の悟りについて
「OSHOは悟っているのか」という問いもありました。
禅には「祖師西来意(そしせいらいい)」という問いがあります。
これは「達磨大師がなぜインドから中国に来たのか」という意味ですが、
その答えは言葉では示されません。
また「直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」という言葉があります。
自分の心を直接見つめ、自らの本性に気づくことが仏である、という意味です。
大切なのは、本から知識を得ることだけではなく、
自分自身が実践することです。
他者と自分は別の存在です。
だからこそ、自分自身の歩みとして確かめていくことが求められます。
最後に
今回のやり取りはすべて英語でした。
学生時代に留学やバックパッカーで英語を使っていましたが、久しぶりでした。
うまく伝わっていたか少し不安もありますが、
こうして仏教を通じてつながる時間は、とても有意義なものでした。
祥雲寺では、海外の方の参禅も受け入れています。
ご縁があれば、ぜひ一度足を運んでみてください。


